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「18年目の報告書」
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18年目の報告書
海部内閣と政治改革
海部内閣の誕生

 初当選をさせていただいてから今日まで、私は与えられた仕事に全力で取り組んでまいったと自負いたしております。私のモットーであります「天命に身を任せ、人事を尽くす」ことを実行してきたつもりでおります。当選一、二回生の時には、国会の委員会や党の部会などにおきまして、先輩、同僚議員のご指導を受けながら、とにかく汗をかかせていただきました。
 そんな私に転機が訪れましたのは、平成二年に三回目の当選を果たさせていただいた時です。平成元年には竹下内閣が総辞職、短命の宇野内閣の後に海部内閣が発足いたしました。「河本総理」を夢見てきた私どもにとり、たとえ同じグループでありましても、率直に申し上げて「海部総理」の誕生は複雑な心境でした。
 「河本総理」の可能性がゼロになりましたとき、「力及ばず申し訳ございません」と涙ながらにお詫びをしますと、河本先生は「これからの私の仕事は二十一世紀を担う政治家を育てることだよ」と毅然とした態度をお示しになりました。そして片っ端から吉田松陰の書物をお読みになり、「平成の吉田松陰」を実行して若い政治家を多く誕生させた先生の姿に感激をいたしました。党派を超え、今も河本先生に育てられた議員が多く活躍されています。

官房副長官に就任

 第二次海部内閣の発足とともに、私は坂本三十次内閣官房長官の下で、副長官に任命されました。従来の「永田町の論理」では、決して誕生することのなかった内閣です。リクルート事件に伴い、多くの有力議員が一時的に公職への就任を自粛された結果です。その分、小規模の総裁派閥が政局を運営することは難儀を極めました。
 私が海部内閣に求めましたことは、長期政権を目指すのではなく、一秒、一分、一時間、一日、全力で政策課題に取り組むことでした。海部内閣は国民の政治不信によって生まれた以上、政治改革の断行こそ「厳粛な使命」であり、「時代の要請」であると考え、所信表明演説にも盛り込まれました。
 一方、この頃、アメリカとの間に新たな火種も生じていました。構造協議(SII)です。部分的、個別的な経済摩擦の解消だけではなく、両国の構造を見直そうという協議でしたが、これが決裂いたしますと、アメリカによる報復の恐れがあったのです。結果的に日本の公共投資の拡大や大型店出店規制の媛和などで、ようやく合意に至ることができました。このことを河本先生にご報告にまいりますと、「そうか、そうか」と珍しく笑みを浮かべ、手を叩いて喜ばれましたことが懐かしく思い出されます。普段笑わない人が笑うのは実に素敵なことだと記憶しております。

政治改革の端緒

 海部内閣の最大の使命は政治改革の実現でしたが、これは決して容易な改革ではありませんでした。一口に政治改革といいましても、その内容は多岐にわたりますが、中核を成しましたのは衆議院の選挙制度改革で、議員の身分に直結する問題です。第二次海部内閣が発足して早々の四月、選挙制度審議会は衆議院に小選挙区比例代表並立制を柱とする答申を提出しましたが、党内手続きが残されていました。
 従来の中選挙区制にも利点はありましたが、同じ政党の候補者による争い、つまり同士討ちの弊害は身をもって経験してまいりました。サービス合戦に終止符を打ち、政党本位・政策本位の選挙、そして緊張感のある政治を実現するためにも、小選挙区制を導入する必要があったのです。しかし、数十年にわたって続いてまいりました制度を一朝一夕に変えることは決して容易ではありませんでした。
 後藤田正晴先生などの「改革派」がいらっしゃった反面、マスコミに「守旧派」のレッテルを貼られた方々もいらっしゃいました。それでも、党議決定までこぎ着け、何とか公職選挙法改正案を国会に提出することができました。
 しかし、もともと選挙制度改革に慎重な議員が多くいましたことに加え、後述します湾岸危機によって政治改革を求める熱が冷めはじめたため、平成三年の九月、衆議院の政治改革特別委員会で審議未了廃案となりました。選挙制度改革が実現しますのは、その二年半後の平成六年三月のことです。

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