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親を語る 政治信条を無言で教えてくれた師
 大島理森文相が「父親」というものを初めて近くに感じたのは、父、勇太郎氏が八回目の当選を目指しながら一敗地にまみれた昭和四十二年の青森県議選だった。
 「皆さん、本当にありがとう。自分の不徳のいたすところだ」
 大学二年生で初めて本格的に選挙運動を手伝った理森氏には、公営掲示板に張られた父のポスターをはがすという屈辱が残ったが、勇太郎氏は言い訳がましいことも言わずに、支持者に深々と頭を下げた。そんな姿を見て、以前は他人のようだった父が「男とはこうあるべきだ」という存在に感じられた。

 理森氏が物心ついたころ、勇太郎氏はすでに県議として活躍しており、自宅のある八戸市に帰ることは少なかった。政治家でありながら家では寡黙で、若いころの話や仕事の話は聞いたことがない。
 「本当に遠い存在でした。選挙区でこまめに動き回るタイプではなかったから、農業をやりながらあちらの葬式、こちらのお祝い事を回るのは母の仕事でしたし、僕の相談相手も兄や姉でした」

 少年時代の父の思い出といえば、たまに家に帰ってきた父のおぜんにだけ並べられるごちそうや、青森市の入院先に母と見舞いに行ったことぐらい。父が四十六歳の時に生まれた子だから、人並みにしかられたり、殴られたりした経験はない。
 ただ一度だけ一喝されたことがある。新聞社の広告局員だった理森氏が県議を志した昭和四十九年二月のことだ。勇太郎氏が引退してからすでに七年がたっている。父は「お前が考えているほど甘くない」と息子をしかりつけ、東京に帰らせた。

 理森氏が勇太郎氏の急逝の知らせを受けたのはその二カ月後だった。友人から借りた車が故郷に近づくにつれ、「もっと話しておけばよかった」と涙があふれる一方、あのときにしかってくれたのは、父の地盤を引き継ごうという自分の甘さをただすためだったのだと確信した。
 その年の八月、父の新盆で立候補する決意を親族や地元の人たちに示した理森氏は、九月には新聞社を辞めて選挙区を徹底的に回った。無所属の自分が当選できるとは思っていなかったが、父の残り火がポツポツと起こり、五十年四月の県議選では父の最後の選挙の二倍近くの得票を掘り起こし、二位で初当選を遂げる。
 「親があって選挙ができたのは確かだが、『父の遺志を継いで』とは一言も言ったことがない。父は何も語らなかったが、『お前の力で道を切り開け』と伝えたかったのではないか」

 こう語る理森氏は、国政への夢を果たせぬまま逝った勇太郎氏を、ある意味では反面教師とする一方で、「政治家の仕事はなすべきことをなすことだ」という政治信条を無言で教えてくれた人生の師ととらえている。

 「子は親を見て育つ。そういう覚悟でわが子に接すれば、何も言わなくても子供は親を信頼するのではないか。一番いけないのは、子供に愚痴をこぼすことだ」
 これが、父の果たしえなかった夢を果たし、二度目の大臣として教育改革という二十一世紀を左右する重要課題に取り組んでいる理森氏自身の家庭教育論だ。

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